ブレジンスキー死亡

  • 2017.05.31 Wednesday
  • 01:53

 

ズビグネフ・ブレジンスキーが5月26日に死んだ。

 

 

1928年3月28日にポーランドのワルシャワで外交官の息子として誕生したが、一族の出身地はガリツィアのブレザニー(現在はウクライナ)だという。

 

 

1938年に父親の仕事でカナダのモントリオールで生活を始め、1953年にはハーバード大学で博士号を取得、後にコロンビア大学で教えるようになる。このころかCIAと関係ができたと見られているが、その一方でデイビッド・ロックフェラーと親しくなる。

 

 

 

ベトナム戦争への本格的な軍事介入に反対、ソ連との平和共存を売ったいていたジョン・F・ケネディ大統領、ベトナム戦争へ反対していたマーチン・ルーサー・キング牧師、ケネディ大統領の弟でキング牧師と親しかったロバート・ケネディーが暗殺される一方、アメリカは戦争へとのめり込むが、国内では反戦運動が活発化、1972年の大統領選挙で民主党の候補は反戦の意思を明確にしていたジョージ・マクガバンが選ばれた。

 

 

しかも、共和党のリチャード・ニクソンもデタント(緊張緩和)を考えていた。ブレジンスキーはマクガバンやニクソンに敵対する。

 

 

 

選挙戦の最中、民主党の内部ではヘンリー・ジャクソン上院議員を中心に反マクガバン派がCDMを結成している。

 

ジャクソン議員のオフィスは後にネオコンの幹部になる人たちが送り込まれ、教育の場になっていた。その中にはポール・ウォルフォウィッツ、リチャード・パール、ダグラス・フェイスも含まれていた。

 

 

 

ニクソン失脚後にジェラルド・フォードが大統領になるとデタント派が粛清され、CIA長官はウィリアム・コルビーからジョージ・H・W・ブッシュへ、国防長官はジェームズ・シュレシンジャーからドナルド・ラムズフェルドへ交代になる。

 

また、リチャード・チェイニーが大統領首席補佐官に就任、ウォルフォウィッツやジャクソン議員の顧問だったリチャード・パイプスはCIAの内部でソ連脅威論を正当化するための偽情報を発信するチームBのメンバーに選ばれている。

 

 

 

1976年の大統領選挙で勝ったジミー・カーターはブレジンスキーとデイビッド・ロックフェラーが後ろ盾になっていた人物。ブレジンスキーはその政権で安全保障補佐官に就任した。

 

 

1978年にCIAとイランの情報機関SAVAKはエージェントをアフガニスタンへ派遣、軍内部の左派将校を排除し、左翼政党を弾圧するように工作(Diego Cordovez and Selig S. Harrison, “Out of Afghanistan”, Oxford University Press, 1995)、79年4月にはNSC(国家安全保障会議)でアフガニスタンの「未熟な抵抗グループ」に対する同情を訴え、CIAはゲリラへの支援プログラムを開始している。

 

5月にはCIAイスタンブール支局長がアフガニスタンのリーダーたちと会談している。

 

 

こうした工作が功を奏し、1979年12月にソ連の機甲部隊がブレジンスキーの思惑通りに軍事介入してくる。

 

そのソ連軍と戦わせるために彼はCIAに戦闘員を訓練させているが、その戦闘員を雇っていたのがサウジアラビア。CIAは対戦車ミサイルのTOWや携帯型地対空ミサイルのスティンガーを供給している。

 

 

サウジアラビアで教鞭を執っていたアブドゥラ・アッザムが戦闘員を集める工作を始めるのだが、そのアッザムの教え子のひとりがオサマ・ビン・ラディン。ふたりは1984年にパキスタンへ行き、そこでMAK(礼拝事務局)を創設する。アル・カイダの前身になる団体だ。

 

 

 

このアル・カイダを戦闘集団だと誤解している人もいるようだが、実際は違う。

 

ロビン・クック元英外相が指摘しているように、CIAから軍事訓練を受けた「ムジャヒディン」のコンピュータ・ファイル、つまり傭兵の登録リスト。ちなみにアル・カイダはアラビア語でベースを意味し、データベースの訳語としても使われている。

 

 

 

アル・カイダに登録されている戦闘員を中心に武装集団を編成、さまざまなタグをつけて侵略の手先にするという仕組みを作り上げたのはブレジンスキーだということ。

 

 

後にフランスのヌーベル・オプセルヴァトゥール誌からブレジンスキーはインタビューを受け、こうした戦闘集団を作り、戦乱を広めたことを後悔していないかと聞かれているが、それに対して後悔はしていないとした上で、「秘密工作はすばらしいアイデアだった」と答えている。(Le Nouvel Observateur, January 15-21, 1998)

 

 

ブレジンスキーは地上に破壊と殺戮を広めたひとりだった。

 

 

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201705300000/

 

 

 

 

◎ ブレジンスキーはスピーチの中で、大衆的な政治的な目覚めの脅威を指摘し、世界の政治的に目覚めた大衆を支配する能力は歴史的低水準にあるとして、危機感を表明しています。

 

そして彼は、今や“100万人をコントロールするよりも100万人を殺す方が限りなく簡単”と口走ってしまうのです。

 

こうした彼の焦りが決定的になったのが、ロシアのシリア介入です。

 

 

結局、彼は怒りと絶望の中で消えていったと思われます。

 

 

 

 

 

 

https://shanti-phula.net/ja/social/blog/?p=129150

 

 

 

 

 

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