これも明治からの嘘  捏造   伊勢神宮

  • 2018.01.09 Tuesday
  • 00:16

 

 

☆ 郷土史研究家の方の記事です。

 

 

 

皇大神宮(伊勢神宮内宮)が現在のようなイメージになったのは明治維新後であった。

 

以前は天皇の参詣も無く、むしろ豊受大神宮(伊勢神宮外宮)が大衆に広く信仰されていた。

 

明治維新後の国家祭祀についても出雲大社との綱引きがあり、辛うじて勝利した経緯があった。

 

すなわち、裏伊勢を自認する宗像大社の隆盛も明治維新後からであろう!

 

 

由緒があると宣伝された神社はピカピカで、古刹と言われる寺院は侘び寂びのイメージがあるのは、明治維新後の廃仏毀釈の為であった。

 

 

参考

 

伊勢神宮の意味は明治維新で激変した(参考)

 

天皇家との関わりなど、出雲以上に厳格厳粛なイメージのある伊勢神宮(実際、伊勢神宮は結婚式事業には参入していない)。

 

しかし、江戸時代に庶民の人気を博した滑稽本『東海道中膝栗毛』などで描かれる"お伊勢さん"のイメージは、それとは少々異なっているようにも思える。

 

戦国の世が終わり社会が安定化してくるなか、「御師(おんし)」と呼ばれる中下級の宗教者たちが全国各地に飛び、庶民に対して伊勢参宮を勧奨して回ったという江戸時代。

 

 

当時は、皇祖神である天照大御神を祀った内宮よりも、五穀豊穣の神である豊受大御神を祀った外宮のほうが、むしろ庶民の間では人気が高かったようだ。

 

 

さらに、伊勢神宮の周辺には御師の営む宿坊が立ち並び、内宮と外宮の中間にあたる古市地区には男性客を当て込んだ遊郭が建てられ、国内でも有数の色街に発展していたという。

 

 

建築史や建築評論を専門としつつ、社会文化論などにも詳しい五十嵐太郎・東北大学大学院教授は、こうした点について次のように解説する。

 

 

「伊勢神宮は、少なくとも江戸時代には大衆的なツーリズムの場所であって、伊勢神宮の周辺にはいろんな土産物屋があったり遊ぶ場所があったりする、一大歓楽街だったわけです。

 

 

それが変わったのが明治時代。そうしたものをすべて取り払って、今日我々が一般的に持っているような伊勢神宮のイメージ――清らかで美しい場所であるというイメージに作り変えていった。

 

それまで、神仏習合の状態で受け入れられていたのを、そういった『非常にピュアなもの』であるというふうに変えたのが、近代におけるいちばん大きな変化といえるでしょう」(五十嵐氏)

 

 

 

-1 江戸時代までは歴代天皇は伊勢神宮に参詣しなかった(参考) by 歴史作家の恵美嘉樹

 

意外かもしれませんが、実は江戸時代までの歴代の天皇で伊勢神宮を参った天皇はいませんでした。。。

 

なんと、初めて参拝したのは明治天皇だったのです!

 

 

廃仏毀釈をはじめとする明治時代の「国家神道」というものが、いかに日本本来の歴史と伝統からかけ離れた「作られた伝統っぽい文化」だったことの証拠のひとつです。

 

 

伊勢神宮が、アマテラス大神をまつる国家第一の神社として存在したことが、歴史上間違いなく言える、ぶっちゃけ言うと、「日本NO1の伊勢神宮を創設した」のは、飛鳥時代末の天武天皇と考えられています。

 

 

『日本書紀によれば、雄略大王の時代から王女が「伊勢大神」の祠に侍する慣行のあったことが知られるが、しかし、歴代の倭王ないし王族のなかで、「天照大神」を拝したのは大海人皇子=天武天皇が最初であった。

 

「伊勢大神」は「伊勢の神」であるのに対し、「天照大神」は「高天原の神」であった。

 

 

「天照大神」の出現は、「伊勢大神」からの移行ではなく、新しい神の創出である。

 

「日神」と「天照る大神」との類似性はあるが、

 

しかし「日神」の自然神としての性格は、捨象され、人格神としての装いをもった「天照大神」の出現であった』

 

と、九州大名誉教授の田村圓澄さんは『伊勢神宮の成立』(115p、吉川弘文館、1996、2009年再刊)の中でずばり指摘しています。

 

 

 

-2 天皇は誰も伊勢神宮を訪れなかった(参考)

 

六九二年、女帝持統天皇(四一代)は三月三日に伊勢に行幸すると詔を発したが、これに対して三輪氏の高市麿が強硬に反対した。

 

三輪高市麿とは出雲神大国主の子孫、三輪氏の氏上で壬申の乱(六七二)に軍功を立て、臣下の最高位である朝臣五二氏の筆頭の重臣であった。大国主命を祀る大和一の宮大神神社の社家でもある。

 

 

このために持統天皇は三日の出立は諦めたが、それでも反対を押し切り、三日遅れて六日に伊勢に向かった。

 

持統天皇(四一代)も聖武天皇(四四代)も、まるで伊勢探椶鯣鬚韻討い燭のようである。

 

 

伊勢探楞老(日本書紀)から一六〇〇年も後に、ようやく天皇が初めて伊勢探椶鯔れた。明治二年(一八六九)三月のことであった。

 

昭和天皇が皇太子時代も含めて二〇回近くも訪れているので、天皇は伊勢探椶某毒劼垢襪發里箸い思い込みが誰にでもあるが、明治時代前には誰一人として一度も訪れていないのである。

 

 

天照大神が「傍から離してはならない」と命じた鏡を遠国の伊勢に祀り、

しかも天皇は一六〇〇年もの間、誰も伊勢探椶鯔れていない。ここに日本の建国史の鍵が隠されている。

 

 

 天皇が誰一人も伊勢探椶鯔れなかった事実を指摘すると、「宮中で祀られているから構わない」という反論が返ってくることがある。

 

しかし、一〇代崇神天皇は「神の勢いを畏れて、共に住みたまふに安からず。(日本書紀)」と言って、天照大神の祭祀を宮中から外に出したのである。

 

 

 

しかも『延喜式(九二七)』に載る宮中三六神の中に、出雲神の事代主の名前はあっても、天照大神の名は無い。

 

宮中の賢所に祀られたのは後世のことである。

 

明らかに天照大神の祭祀は、大和朝廷によって蔑ろにされていた。

 

 

それは『古語拾遺(八〇七)』の次の一文からも知ることができる。

 

「天照大神は祖・宗であって、尊きこと並びなく、他の諸神は子・臣にして、いずれも比較することはできない。それなのに今、神祇官が天照大神を祀るのが後回しにされている。」すでに、九世紀の初め(六〇代醍醐天皇の御代)には、天照大神の祭祀が諸神の後回しにされていた、と書かれている。

 

 

 

伊勢探椶忙鼎┐觜捗を斎王と言い、「天皇が位に就けば、伊勢の大神宮の斎王を定めよ。」と『延喜式』に記されている。

 

 

しかし、同様に「賀茂大神の斎王を定めよ。」ともある。

 

 

賀茂大神とは山城一の宮の賀茂大社をいう。その賀茂大社の社家には二説があるが、ひとつは大国主命の子孫の賀茂氏(三輪氏の同族)である。そして、賀茂の斎王は伊勢の斎王よりも上位の者がその任に就いた。ここでも皇祖神よりも出雲神が重要視されている。

 

皇祖天照大神は宮中に祀られず、祭祀が諸神の後回しにされ、斎王も賀茂神のよりも格下であった。これが紛れもない事実である。

 

 

 

天照大神が最高神に決まったのは明治時代(参考)

 

 

ほとんどの日本人が、古代から天照大神の祭祀こそが、国家最大の祭事であったかのように思い違いをしている。

それは古代の大和朝廷ではなく、近代の明治政府が決定したことに過ぎなかった。

 

 

 

長い間判読できなくなっていた『古事記』を解読したのは、江戸時代の国学者本居宣長(一八〇一没)であった。

 

その宣長の死後、養子の本居太平に弟子入りした平田篤胤(一八四三没)が興した平田神学は、幕末の勤王の志士たちに大きな影響を与えたが、篤胤が重視した神は、天照大神ではなく出雲神の大国主命であった。

 

これは『古事記』を忠実に読めば、誰でもその結論に至らざるを得ない。

 

 

ところが、明治新政府は神道の最高神を決定するにあたり、二大派閥の薩摩が造化三神(天御中主神・高魂神・神魂神)を推し、

長州は天照大神を推していた。

 

 

一時、長州派が神祇官を独占し平田神学派を一掃したが、その後に、薩摩派が長州派を追い出し主導権を握った。しかし、薩摩派は西郷隆盛の失脚(一八七三)とともに、その力を失ってしまった。

 

 

こうして長州派(伊勢派)は力を盛り返したが、今度は出雲大社を中心とした出雲派が台頭してきた。出雲派の中心人物である出雲国造家の千家尊福は、著書の『神道要章』に次のように述べている。

 

 

「国土に生ずる万物は、大国主大神のお造りになった国土に生じるものであって、例え、太陽(天照大神)の光を受けても、土地を離れては生じることはできない。

 

(中略)天神(天照大神)を崇敬するにしても、まず(大国主大神のお造りになった)大地の恩に感謝すべきである。」

 

 

『記紀』と全国の神社のほとんどが出雲神を重視している以上、論争になれば、伊勢派がだんだんと窮地に追い込まれてしまうのは当然の結果であった。

 

しかし、伊勢派はより権力に近いところに居た。

 

長州の山田顕義(松下村塾出身 初代司法大臣)に働きかけ、明治一四年(一八八一年)に、「宮中に祭られる神は天照大神」という明治天皇の勅裁を得ることに成功した。

 

これによって最高神争いは決着し、出雲派の敗北が決定した。

 

このように神道の最高神が天照大神に決まったのは、政治の力であった。

 

 

 

西郷隆盛が失脚していなければ、あるいは勅裁が下りなければ、代わりに造化三神、あるいは大国主命がその地位を占めていた。

 

天照大神はまったく偶然の産物であった。

 

『記紀』は皇祖神を讃えず、出雲神を讃え、全国の大社・古社は皇祖神ではなく、出雲神を祀っている。

 

そのような状況下で、天照大神が最高神になったことは奇跡に近いことでもあった。

 

 

 

伝統行事と歴史の作り方(参考)

 

https://ameblo.jp/shimonose9m/entry-12106995436.html

 

 

 

☆ 天皇という言葉がありますが 日本を治めていたのは 渡来人の王 だったと思います。

 

天皇という言葉でさえ 明治からの作り物ではないでしょうか。

 

(天皇とは 本来 死者への言葉だったということです)

 

また 様々な 天皇の名がありますが みな 新羅 百済 高句麗の王ではないかと思います。

 

 

そう、なんだかかってに 明治から

 

日本の天皇というものが 出現したのだと思います。

 

 

ということは

 

アマテラスというのは 悪魔なのでしょうか?

 

とにかく 明治からの 不思議なNWOの権力が崇拝しているのですから。

 

 

 

 

 

 

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