シンガポールに残る 美しい神軍の侵略の跡  ‘英は偽旗か?

  • 2018.06.15 Friday
  • 00:06

 

 

このセントーサ島の中に、シンガポールが日本軍に占領された歴史を記録した「シロソ砦の戦争記念館」と「イメージ・オブ・シンガポール」がある。

 

ここを訪れる日本人は少ない。

 

そこには日本軍によるシンガポール占領の記録が、蝋人形や写真、文書、映像などにより残されている。

 

セントーサ島はマレー語で「平和と静けさ」を意味するが、皮肉にも日本との戦争によって戦禍にまみれてしまった。

 

 

 

シンガポール市内各地にも、日本軍の侵略・占領の傷跡、モニュメントや、日本と戦ったイギリス軍の司令部が置かれた要塞が残されている。

 

さらにシンガポール国立博物館では、多くのスペースを割いて占領時代を紹介している

 

 

1941年12月8日、真珠湾攻撃と同じ日だが真珠湾攻撃より1時間早く、日本軍はマレーシアのコタバル海岸などに上陸し、東南アジアへの攻撃を開始した。

 

 

数日後には日本軍はイギリス海軍の軍艦「プリンスオブウェールズ」と「レパルス」号を撃沈させるなど破竹の勢いで進軍した。

 

それは、マレーシア人など現地人に、強いといわれたイギリス軍でも日本の攻撃からは自分たちを守れないと思わせるのに十分なものだった。

 

 

日本軍は攻撃開始から60日あまりでマレー半島を占領し、1942年1月末にはシンガポールに到達した。

 

 

イギリス軍は、日本軍が密林の深いマレー半島を南下するのはまず無理であると考え、シンガポールの南の海から侵略してくると予測し、セントーサ島のシロソに大きな大砲を設置して日本軍の上陸を阻止しようとしていた。

 

 

ところが日本軍は、イギリス軍の予測に反しマレー半島を南下した。鉈で木を切り倒しながらジャングルの中に道を作って進軍し、農村部では自転車を調達して乗り、北から一気に攻めてきたのである。南を見張るシロソの砦はほとんど役に立たなかった。

 

 

「シロソ砦の戦争記念館」には、イギリス軍が日本軍に降伏した交渉テーブルの様子が蝋人形で精巧に再現されている。

 

また、ビデオ映像もある。テーブルでは、日本側は「マレーの虎」といわれた山下奉文中将軍司令官がいかつい顔ですごんでいる。

 

 

その左には鈴木中将参謀長、右には杉田中佐らが同席している。

 

対峙するイギリス側は、パーシバル司令官を中心に、右にトランス参謀長、左に通訳らが並んでおり、降伏調印までもう1日待ってもらえないかと日本側に交渉している。

 

だが、日本側の山下司令官は頑として聞かず、降伏に「Yes or No」を迫っており、パーシバル司令官は激しく目をしばたたかせながら、苦渋の選択を迫られ、最後には降伏を受諾し署名する。

 

 

 

 

 

蝋人形のそばのビデオ映像では、パーシバル司令官が降伏に至った過程を次のように説明していた。

 

 

1942年2月15日午前6時、パーシバル司令官は前線からの戦況報告が芳しくないことを聞いた。

 

貯水池は日本軍に抑えられ、24時間後にはイギリス軍の水が無くなること、さらに食糧保管庫も取られ48時間後には払底すること、ガソリンも底をつき始めたこと、対空砲の弾薬はほぼ使い果たし、大砲が少し残るだけだったことなどの報告があった。

 

 

午前9時半、パーシバルは前線指揮官を集め、今後の作戦会議を開いた。

 

 

ヒース中佐は戦況からして、補給が絶たれており長くは持たないので、降伏を進言した。ベネット中将らもヒースに賛成し、これ以上の抵抗は一般市民の死傷者数のおびただしい増加につながるとの考えで、降伏やむなしとする意見が大勢を占めた。

 

 

しかしパーシバルは、イギリスの名誉がかかっているので考え直せと強く指示した。さまざまな反撃作戦が検討されたが、どれも勝算はないとして出席者が全員反対した。パーシバルは苦悶の末、最終的には降伏を決断した。

 


午前11時半にパーシバルは、フォートカニング要塞を出て日本軍側に代表団を送り杉田中佐に停戦協定の要望を伝えた。


午後、山下司令官はこの報告を受けたが、これは増援隊が来るまでの時間稼ぎの作戦かもしれないと疑った。

 

山下司令官はイギリス側に無条件降伏をあくまで求めた。そしてパーシバル司令官との直接会談を要求した。

 

パーシバルは、急ぎロンドンから降伏許可を取り付けた。午後5時過ぎ、パーシバルは、英軍将校2名と通訳を連れ、白旗とユニオンジャックを掲げ、日本軍の司令本部となっていたブギティマにあるフォード工場に到着した。この中の会議室で山下司令官と会い、握手して会談が始まった。

 


パーシバルは降伏文書を読んで、翌朝まで署名を待ってほしいと交渉したが、山下司令官は怒り出し、断固とした態度で無条件降伏を迫った。

 

顔面蒼白となったパーシバルはトランス参謀と相談したり頬づえをついたりして悩み、通訳に無条件降伏に“Yes.”と伝えた。こうして夜8時30分、パーシバルは降伏文書に調印したのであった。

 


山下司令官は後に語っているが、実はこのとき、日本軍は既に兵器、弾薬、燃料、食糧が底をつき始めていた。戦車は18台に減っており、歩兵の弾薬消費量は一人1日100発までと決められていた。食料も1日わずか茶わん2杯のご飯で戦い続けていたが、それすら途切れがちになっていた。

 

 

マレー作戦で、既に4515名の死傷者を出しており、残りの兵は3万人であった。そして、イギリス軍には3倍近くの歩兵がいるとの情報があった。

 


「私(山下司令官)のもとには3万人しかいなく、相手側はその3倍もいた。

 

シンガポールでの戦いが長期戦になれば、負けるであろうと分かっていた。だからこそ、イギリス軍を一気に陥落させる必要があった。われわれが数の上では圧倒的に劣勢であり、兵たんも欠乏していることを英軍が見破り、悲惨な市街戦に持ち込みはしないかと私は始終恐れていた」(メディアマスターズ社、「マラヤ・シンガポール攻略」)

 


既に市街地では日本軍による連日の激しい攻撃が始まっており、焼夷弾(しょういだん)の空爆や集中砲火などで、民家が焼け、市民や兵士で毎日1,000人以上の死傷者が出ていた。病院はもはや負傷者を収容しきれなくなっており、ラッフルズ・ホテルなどが仮設の病院となって収容に当たっていた。

 


日本軍もイギリス軍も双方軍需補給が欠乏して、ぎりぎりの消耗戦になっていたが、勝敗を分けたのは「水」であった。

 

日本軍はいち早く貯水池を押さえ、コウズウエー北部の給水場も押さえており、これが占領につながった。

 

12月から2月までのマレー半島およびシンガポールでの戦争で、イギリス連合軍は12万5,000人の犠牲者を出し、日本軍は1万5,000人が犠牲となった。

 


1942年から1945年までの日本占領時代には、シンガポールは昭南島と改名させられた。

 

 

記念館には、この時代の記録として、「シンガポール大検証」とも言われる華僑の虐殺や、華僑への多額の寄付金の強要、捕虜への虐待、住民弾圧の様子が展示されていた。

 

シンガポールの住民が、いかに苦難の道を歩んできたかが、うかがえる。

 


一方、広島への原爆投下の写真と共に、日本軍降伏の調印式の様子も蝋人形で再現されている。

 

イギリス軍はマウントバッテン、日本軍は板垣征四郎が中心に座り、それぞれの部下が勢ぞろいして向かい合っている。敗れた日本側は肩を落としうつむいている。勝利したイギリス側は、胸を張り正面をまっすぐ見つめている。

 

 

https://www.nttdata-getronics.co.jp/csr/lits-cafe/sato/singapore.html

 

 

 

☆ 日本は こっそりと 実は 英国陸軍正規軍の天皇の軍隊だったので この 日英の戦闘は 一般の各国の兵隊は 芝居に乗らされていたと 私には見えるのですが ・・・

 

 

 

 

 

◎ ところが日本軍を統帥したのは英国正規軍の陸軍元帥、昭和天皇だったのだ。


https://www.google.co.jp/imgres?imgurl=https%3A%2F%2Fpbs.twimg.com%2Fmedia%2FDfMDVryU0AUvRKj.jpg&imgrefurl=https%3A%2F%2Ftwitter.com%2Fpinkglalem&docid=JFCrucMaS2kGmM&tbnid=cpPQNpm5qsWQ2M%3A&vet=10ahUKEwjQ8MGcosvbAhWrCqYKHX8CB3oQMwgnKAAwAA..i&w=1029&h=1200&bih=613&biw=1366&q=https%3A%2F%2Fpbs.twimg.com%2Fmedia%2FDfMDVryU0AUvRKj.jpg&ved=0ahUKEwjQ8MGcosvbAhWrCqYKHX8CB3oQMwgnKAAwAA&iact=mrc&uact=8
 

 

 

 

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