朝鮮ヤクザが「神の軍隊」と呼ぶ 旧日本軍のシンガポール侵略 

  • 2018.06.17 Sunday
  • 00:01

 

 

シンガポール国立博物館

 


白亜のシンガポール国立博物館には、シンガポールの歴史が展示されている。

 

 

日本占領時代のコーナーは暗く重々しい。

 

まず目に入るのが壁一杯にかけられているたくさんの自転車である。これは日本軍が自転車でマレーシアとシンガポールに侵入してきたことを意味している。

 

 

   

 

 


シンガポールが降伏したとき、当時の日本の新聞は「祝、シンガポール陥落」と大見出しで賛美していた。

 

 

掲示されているスローガンの中には「勝って兜の緒を締めよ」もある。

 

日本語教育の強制や、それに伴う日本の道徳やしつけの教育、神社でのお参りの仕方やラジオ体操の指導の映像や写真もある。

 

 

マライ宣伝部発行の「こどもしんぶん」には、「東亜のこどもは謙虚の道徳を身につけるべし」と書かれている。

 

また食糧配給所での様子や昭南神社への奉納作文を読み上げる子どもの映像もある。

 


「大検証」のコーナーでは、多くの写真や虐殺に使われた日本刀などが展示されていた。

 

 

遺族の声を録音したテープを聴くと

 

「シンガポールを守り抜くために、中国人、マレー人、インド人らの民族は団結して」、

 

「日本による占領を二度と起こさせないために、次の世代の子どもたちには大虐殺を風化させることなく伝えていくべきだ」という言葉に胸が詰まる。

 

 


また、占領府は軍票を発行し、そこにはバナナの絵が描かれてあったことから「バナナ紙幣」と呼ばれていた。

 

 

住民に強制的に交換させたが、終戦後、軍票は紙くず同然になってしまった。

 

これも住民の反感を買い、長く恨みを買ったことのひとつである。「バナナ紙幣」とは「価値のないもの」をさす代名詞になったほどである。

 


占領府は学校での日本語教育を強制し、日本語新聞を発刊し、日本神道を広めるために昭南神社を設置した。

 

地名も日本式に変え、時刻も日本時間に合わせることとした。

 

 

住民相互の監視体制を作るため、密告制を敷いた。

 

 

食糧は配給制になり、米、塩、砂糖などは家族の多寡によって量を決められ、公定価格での配給統制になった。

 

 

日常生活の統制や憲兵による住民弾圧などによって、多くの住民が苦しみ、日本への反感を持ち、マレーシアに逃げ出す者が後を絶たなかった。

 


日本占領府は、占領後間もなく食糧不足に直面した。

 

少しでも食糧不足を補おうとして、30万人ほどの住民をマレーシアの東海岸に強制的に移住させて開墾させようとしたが、移住を望まない住民の抵抗に遭い、失敗した。

 


日本がシンガポールを攻撃し占領した3年8カ月は、それまで100年以上植民地支配してきたイギリスの支配よりも過酷なものとなり、住民を恐怖と絶望のどん底に陥れた。

 

 

こうしたことから、シンガポール人には、自分で自分の国を治めるというナショナリズムの意識が生まれた。

 

それまでは、シンガポールはイギリスのアジア支配を絶対的なものとしてあきらめてきたが、日本軍が2〜3カ月でイギリス軍を破ったことで、逆に重しが取れ、ナショナリズム意識が芽生えていったともいえる。

 


博物館では、リー・クアンユー(李光耀)のコーナーでその肉声も聞くことができる。

 


建国の父となったリー・クアンユーは述懐している。

 

「われわれはイギリス人を追い出したかった。イギリスの武力崩壊を見た後、そして3年半の過酷な日本軍政の支配に苦しんだ後、人々は植民地支配を拒否した。

 

第2次世界大戦と日本による占領を体験し、その体験を通して、日本であろうとイギリスであろうと、われわれを圧迫したり、痛めつけたりする権利は誰にもないのだ、という決意をもつに至った。

 

 

われわれは自ら治め、自ら尊厳ある国民として誇りを持てる国で、子どもたちを育てていこうと決心した」(「シンガポールの政治哲学」、リー・クアンユー著)

 


リー・クアンユーはまた、「日本軍の占領期は、暗黒で残酷な日々で、私にとって最も大きなかつ唯一の政治教育であった」と言っている。

 


そして、1965年、シンガポールは独立を果たしたのである。

 


シンガポールを訪れるならば、観光だけではなく、日本との歴史についてもぜひ関心を持ってほしい。


また、戦争での過去の歴史は忘れてはならないが、卑屈になっていては未来が開けない。


日本とシンガポールは経済的にはもはや切っても切れない密接な関係にある。

 

未来志向に立って、民間・市民レベルでの相互の文化・生活交流を深めて、両国の友好・平和に貢献していこうと、シンガポール国立博物館で誓った。

 


https://www.nttdata-getronics.co.jp/csr/lits-cafe/sato/singapore.html

 

 

 

☆ この残酷な侵略をした 「血筋」は

 

今では 日本で 神となり そして 日本人を 徹底的に搾取しようとしています。

 

 

日本は 今 侵略されているのです。

 

国からの 侵略も 悪も 私たちは 忘れてはならない なぜなら

 

本当の犯人は 反省も 謝罪も 決してすることのない 人間もどきだから。

 

 

やつらと 一緒になってはならない。

 

 

悪魔の軍隊と国を 神 と置き換えて 拡散していったということは

 

朝鮮ヤクザの 徹底した 日本人へのプロパガンダです。

 

 

 

 

◎ 世界史上最悪の25人 

 

(日本の 歴史や 評価を 鵜呑みにするのは 奴隷  独自の検証が必要です)

 

http://www.pettyandposh.com/25-most-evil-people-to-ever-live/

 

 

 

    

 

 

 

 

 

 

シンガポールに残る 美しい神軍の侵略の跡  ‘英は偽旗か?

  • 2018.06.15 Friday
  • 00:06

 

 

このセントーサ島の中に、シンガポールが日本軍に占領された歴史を記録した「シロソ砦の戦争記念館」と「イメージ・オブ・シンガポール」がある。

 

ここを訪れる日本人は少ない。

 

そこには日本軍によるシンガポール占領の記録が、蝋人形や写真、文書、映像などにより残されている。

 

セントーサ島はマレー語で「平和と静けさ」を意味するが、皮肉にも日本との戦争によって戦禍にまみれてしまった。

 

 

 

シンガポール市内各地にも、日本軍の侵略・占領の傷跡、モニュメントや、日本と戦ったイギリス軍の司令部が置かれた要塞が残されている。

 

さらにシンガポール国立博物館では、多くのスペースを割いて占領時代を紹介している

 

 

1941年12月8日、真珠湾攻撃と同じ日だが真珠湾攻撃より1時間早く、日本軍はマレーシアのコタバル海岸などに上陸し、東南アジアへの攻撃を開始した。

 

 

数日後には日本軍はイギリス海軍の軍艦「プリンスオブウェールズ」と「レパルス」号を撃沈させるなど破竹の勢いで進軍した。

 

それは、マレーシア人など現地人に、強いといわれたイギリス軍でも日本の攻撃からは自分たちを守れないと思わせるのに十分なものだった。

 

 

日本軍は攻撃開始から60日あまりでマレー半島を占領し、1942年1月末にはシンガポールに到達した。

 

 

イギリス軍は、日本軍が密林の深いマレー半島を南下するのはまず無理であると考え、シンガポールの南の海から侵略してくると予測し、セントーサ島のシロソに大きな大砲を設置して日本軍の上陸を阻止しようとしていた。

 

 

ところが日本軍は、イギリス軍の予測に反しマレー半島を南下した。鉈で木を切り倒しながらジャングルの中に道を作って進軍し、農村部では自転車を調達して乗り、北から一気に攻めてきたのである。南を見張るシロソの砦はほとんど役に立たなかった。

 

 

「シロソ砦の戦争記念館」には、イギリス軍が日本軍に降伏した交渉テーブルの様子が蝋人形で精巧に再現されている。

 

また、ビデオ映像もある。テーブルでは、日本側は「マレーの虎」といわれた山下奉文中将軍司令官がいかつい顔ですごんでいる。

 

 

その左には鈴木中将参謀長、右には杉田中佐らが同席している。

 

対峙するイギリス側は、パーシバル司令官を中心に、右にトランス参謀長、左に通訳らが並んでおり、降伏調印までもう1日待ってもらえないかと日本側に交渉している。

 

だが、日本側の山下司令官は頑として聞かず、降伏に「Yes or No」を迫っており、パーシバル司令官は激しく目をしばたたかせながら、苦渋の選択を迫られ、最後には降伏を受諾し署名する。

 

 

 

 

 

蝋人形のそばのビデオ映像では、パーシバル司令官が降伏に至った過程を次のように説明していた。

 

 

1942年2月15日午前6時、パーシバル司令官は前線からの戦況報告が芳しくないことを聞いた。

 

貯水池は日本軍に抑えられ、24時間後にはイギリス軍の水が無くなること、さらに食糧保管庫も取られ48時間後には払底すること、ガソリンも底をつき始めたこと、対空砲の弾薬はほぼ使い果たし、大砲が少し残るだけだったことなどの報告があった。

 

 

午前9時半、パーシバルは前線指揮官を集め、今後の作戦会議を開いた。

 

 

ヒース中佐は戦況からして、補給が絶たれており長くは持たないので、降伏を進言した。ベネット中将らもヒースに賛成し、これ以上の抵抗は一般市民の死傷者数のおびただしい増加につながるとの考えで、降伏やむなしとする意見が大勢を占めた。

 

 

しかしパーシバルは、イギリスの名誉がかかっているので考え直せと強く指示した。さまざまな反撃作戦が検討されたが、どれも勝算はないとして出席者が全員反対した。パーシバルは苦悶の末、最終的には降伏を決断した。

 


午前11時半にパーシバルは、フォートカニング要塞を出て日本軍側に代表団を送り杉田中佐に停戦協定の要望を伝えた。


午後、山下司令官はこの報告を受けたが、これは増援隊が来るまでの時間稼ぎの作戦かもしれないと疑った。

 

山下司令官はイギリス側に無条件降伏をあくまで求めた。そしてパーシバル司令官との直接会談を要求した。

 

パーシバルは、急ぎロンドンから降伏許可を取り付けた。午後5時過ぎ、パーシバルは、英軍将校2名と通訳を連れ、白旗とユニオンジャックを掲げ、日本軍の司令本部となっていたブギティマにあるフォード工場に到着した。この中の会議室で山下司令官と会い、握手して会談が始まった。

 


パーシバルは降伏文書を読んで、翌朝まで署名を待ってほしいと交渉したが、山下司令官は怒り出し、断固とした態度で無条件降伏を迫った。

 

顔面蒼白となったパーシバルはトランス参謀と相談したり頬づえをついたりして悩み、通訳に無条件降伏に“Yes.”と伝えた。こうして夜8時30分、パーシバルは降伏文書に調印したのであった。

 


山下司令官は後に語っているが、実はこのとき、日本軍は既に兵器、弾薬、燃料、食糧が底をつき始めていた。戦車は18台に減っており、歩兵の弾薬消費量は一人1日100発までと決められていた。食料も1日わずか茶わん2杯のご飯で戦い続けていたが、それすら途切れがちになっていた。

 

 

マレー作戦で、既に4515名の死傷者を出しており、残りの兵は3万人であった。そして、イギリス軍には3倍近くの歩兵がいるとの情報があった。

 


「私(山下司令官)のもとには3万人しかいなく、相手側はその3倍もいた。

 

シンガポールでの戦いが長期戦になれば、負けるであろうと分かっていた。だからこそ、イギリス軍を一気に陥落させる必要があった。われわれが数の上では圧倒的に劣勢であり、兵たんも欠乏していることを英軍が見破り、悲惨な市街戦に持ち込みはしないかと私は始終恐れていた」(メディアマスターズ社、「マラヤ・シンガポール攻略」)

 


既に市街地では日本軍による連日の激しい攻撃が始まっており、焼夷弾(しょういだん)の空爆や集中砲火などで、民家が焼け、市民や兵士で毎日1,000人以上の死傷者が出ていた。病院はもはや負傷者を収容しきれなくなっており、ラッフルズ・ホテルなどが仮設の病院となって収容に当たっていた。

 


日本軍もイギリス軍も双方軍需補給が欠乏して、ぎりぎりの消耗戦になっていたが、勝敗を分けたのは「水」であった。

 

日本軍はいち早く貯水池を押さえ、コウズウエー北部の給水場も押さえており、これが占領につながった。

 

12月から2月までのマレー半島およびシンガポールでの戦争で、イギリス連合軍は12万5,000人の犠牲者を出し、日本軍は1万5,000人が犠牲となった。

 


1942年から1945年までの日本占領時代には、シンガポールは昭南島と改名させられた。

 

 

記念館には、この時代の記録として、「シンガポール大検証」とも言われる華僑の虐殺や、華僑への多額の寄付金の強要、捕虜への虐待、住民弾圧の様子が展示されていた。

 

シンガポールの住民が、いかに苦難の道を歩んできたかが、うかがえる。

 


一方、広島への原爆投下の写真と共に、日本軍降伏の調印式の様子も蝋人形で再現されている。

 

イギリス軍はマウントバッテン、日本軍は板垣征四郎が中心に座り、それぞれの部下が勢ぞろいして向かい合っている。敗れた日本側は肩を落としうつむいている。勝利したイギリス側は、胸を張り正面をまっすぐ見つめている。

 

 

https://www.nttdata-getronics.co.jp/csr/lits-cafe/sato/singapore.html

 

 

 

☆ 日本は こっそりと 実は 英国陸軍正規軍の天皇の軍隊だったので この 日英の戦闘は 一般の各国の兵隊は 芝居に乗らされていたと 私には見えるのですが ・・・

 

 

 

 

 

◎ ところが日本軍を統帥したのは英国正規軍の陸軍元帥、昭和天皇だったのだ。


https://www.google.co.jp/imgres?imgurl=https%3A%2F%2Fpbs.twimg.com%2Fmedia%2FDfMDVryU0AUvRKj.jpg&imgrefurl=https%3A%2F%2Ftwitter.com%2Fpinkglalem&docid=JFCrucMaS2kGmM&tbnid=cpPQNpm5qsWQ2M%3A&vet=10ahUKEwjQ8MGcosvbAhWrCqYKHX8CB3oQMwgnKAAwAA..i&w=1029&h=1200&bih=613&biw=1366&q=https%3A%2F%2Fpbs.twimg.com%2Fmedia%2FDfMDVryU0AUvRKj.jpg&ved=0ahUKEwjQ8MGcosvbAhWrCqYKHX8CB3oQMwgnKAAwAA&iact=mrc&uact=8
 

 

 

 

なぜ、明治時代になってから、天皇制になったのか ?

  • 2018.06.02 Saturday
  • 23:59

 

 

◆なぜ、明治時代になってから、天皇制になったのか ?(天皇制になったから、明治時代というのだが)

 

 

それでは、なぜ、明治に入って突然なのか ?

 

 

江戸時代末期、諸外国を模範に、「王制に基づく近代国家」を作り上げようとした薩長連合が、倒幕が成功したら、どちら側の藩主を「王様」にするか、

 

当時は、まだまだ「藩意識」が強く、話がまとまらず、そこで担ぎ上げたのが、天皇。(当時、日本は大小、170を超える藩に分かれていた)

 

 

どちら側の藩主を「王様」にするか話がまとまっていれば、まったく別な日本の近代史があった事になり、私達は、現在、全く違う「思考」の中で生きている事になる。当然、私が、この文章を書いていることもない。

 

 

岩倉具視、大久保利通らは急速に天皇制を強めていく。

 

 

明治天皇は全国を「巡幸」し、民衆の前で、元藩主を自分にひざまづかせ、民衆に「雲の上の人と思っていた見たこともない俺達の殿様より、もっと偉い人がいる」と思わせ、

 

神格化し、「教育」での徹底が始まる。

 

 

自分達が「雲の上の人と思っていた殿様より、もっと上の人」、天にいる存在、「現人神」としての天皇が確立する。

 

 

 

◆天皇史、皇室史は、どこまで本当なのか ?

 

意図的に作られた「神話」をごちゃ混ぜにして、「歴史書」が作られたのだろう。

 

神話の主人公は、みんな、天皇の先祖 ?だ。 それも、天皇を「神」にする為だ。

 

 

「日本の歴史」の教科書は、天皇と結びつけた「神話」から始まっていた。

 

明治時代になってから創作され、追加された「日本の歴史」、「天皇史」、「皇室史」も多くあるだろう。

 

 

 

国民には「神国」意識を植え付け、他国、他民族に対して、「優越感」を待たせ、侵略戦争を正当化し、数々の残虐な行為をしても、罪悪感を感じない基礎にしたのだろう。

 

「国民は天皇の赤子」、つまり、天皇の子供。親孝行するのは、当たり前。それが、戦争による悲惨な結果だ。

 

 

 

もともと、「神」の意味が違うのである。

 

何か、願い事をする時の「神様お願いします」という時や、「この世の中、神も仏もない」という時の、「神」とは基本的に意味が違うのである。

 

天皇は「神」であるというのは、前述の、殿様もかなわない、「支配者」という意味である。

 

 

森氏の「日本は神の国である」というのは、「日本は天皇の国である」、といっているのと同じこと。

 

 

 

 

◆天皇主権か、国民主権か、あいまいな民主主義、その中に生きている日本人。

 

 

国民主権といわれながらも、

 

天皇は総理大臣を任命し、法律を公布、国会を召集、衆議院を解散、大臣の認証、条約の認証などをする。

 

 

もちろん、これは内閣の助言と責任においてなされ、天皇は、それを拒否できないと解釈されている(拒否した事例は確認できないが、天皇が拒否しても効力は発するといわれている)

 

 

実質的な権限はなくとも、最後には、天皇の「認証」を必要とするという、実にあいまいな民主主義、国民主権の中に、我々は生きている事になる。

 

 

 

人間は、みな平等といわれるが、一家族の為に、建設省、厚生省などと同じく、「庁(宮内庁)」 まであって、天皇一家5人、7宮家19人のために280億もの税金が使われ(2000年度)、

 

それらを警護する為に、国家公務員としての警護隊が1000人近くもいる。

 

 

あなたの近所に、交番がいくつありますか? そこに、おまわりさん、何人いますか?そうです。日本は、まだまだ「神の国」なのです。

 

最近の天皇が再神格化したような皇室の扱われ方を見る イギリスのように王室廃止論が出るくらいの自由さがあってもいいと思う。

 

 

 

http://www.asyura2.com/0403/bd35/msg/1138.html

 

 

江戸時代    明治時代

  • 2018.05.31 Thursday
  • 23:49

 

 

江戸時代の日本列島を統治したのは中国‼

 

その宮内庁の有職故実家は、

 

「大嘗は中国(ワガクニ)従来の儀式ではなく、唐の制度を模したもの。

ただ大嘗に則っていない山藍摺りにおいては、華人の古を見ることができる。」と書き遺してた‼

 

 

https://pbs.twimg.com/media/Cx2ebKEUkAExg0x.jpg

 

https://twitter.com/honest_kuroki/status/800970730670211072

 

 

 

 

 

 

江戸時代の天皇に権威があったのなら、国際条約には統治者として印とかサインとかあるはずですが、無いですよね。

 

米国のミラードフィルモア大統領は、親書に、徳川将軍をエンペラーと記しています。

 

江戸時代、天皇は権威ばかりかその存在すら、証拠がない。

 

https://twitter.com/honest_kuroki/status/855009657265414144

 

 

 

 

 

◆「日本人は、古代から天皇をうやまってきた」、というのは、本当か ?

 

天皇は古代から日本を統治してきた、それをうやまうのは、日本人の心にやどる伝統だという主張も事実と異なる。

 

 

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の時代、農民、民衆が、「天皇陛下の為」といって、ムシロ旗を掲げて騒いだ話、聞いたことがありますか?

 

 

7、8歳の「天皇」が、敵方に追われ、生母と逃げる途中、入水自殺している例もあり、そこで途絶えていたはず。

 

 

もちろん、現在のように「世襲制」ではない。

 

戦いに勝って、「天皇」となった者は功績のあった者を「皇太子」に任命する。

 

戦いに勝ったら、「皇太子」に任命することを約束させて、どちら側につくか決めることになる。

 

天皇と皇太子の間には、今のような親子関係、血縁関係などはない。

 

 

ここで注意しなくてはならないのは、大王、天王(天皇)は一人ではなかったということだ。

 

5〜6世紀ごろ日本は未だ全国統一されてはおらず、九州、関東、吉備、越(日本海側)など、日本各地に天王(天皇)が存在したということだ。

 

 

 

こう考えてくると、現在の「天皇家」なるものが、古代から続く「万世一系の家系」というのがいかにまやかしであるかが理解できよう。

 

わざわざ、明治時代に入って、「自分こそは万世一系の天皇である」と宣言しなければならなかったこと自体、「嘘」であることの証であろう。

 

 

私がここで問題としたいのは、現在の天皇、皇室とは何者か(税金での扶養も含めて)、

 

そして、彼らを中心にして明治から繰返された民衆の悲惨な歴史はなんだったのか、それをあやふやにしたままの現代はどんな時代であるのかということである。

 

 

 

http://www.asyura2.com/0403/bd35/msg/1138.html

 

 

 

矢切止夫史観 

  • 2018.05.28 Monday
  • 00:14

 

 

私の最も尊敬する矢切止夫先生の著述集

 

〔純正目本史案内〕矢切止夫氏著

 

 

「三つ子の魂は百まで」というが、学校で教わった歴史は、ジソムスイセイ(神武・綏靖)と暗記ものだったゆえ私でさえ、いまだに頭の中に引っ掛かっている。

 

どうしても先入感は強いものである。

 

そこへもってきての、前人未踏の八切史観では、とまどわれるかもと知れぬと案じ、順をおって判りやすく解明してゆく為、前もって予告編みたいにアウトラインを古代史入門の一般的手引きにしておく。

 

 

《藤原鎌足は唐の郭務悰》

 

前書きをしてはやや重複をすこしするが、いきなり、ぶっつけに入ってゆくよりは読みやすい。

 

それに、どうしても古代史に入ってゆくにはタブー視の部落史とは切っても切れぬ問題がある。

 

 

なにしろ西暦六六三年に「郭務悰」が進駐してきて「藤原鎌足」と、日本名になり唐の大宝律令をそのままに輸入したのは「天の古代史研究」に詳しいが、

 

天孫と称したカクさんの方は【良】で、それまでの縄文目本人原住民はみな【賎】にされた。

 

 

二大別とされた賎とは太平洋沿岸に漂着の八のもの

 

次に裏日本から親潮寒流で能登や新潟へ入ってきたのが、獣の四つ足から、【四つ】とよばれる。

 

 

源・平・藤・橘と四大分するが、藤は唐でカク(郭)さんの一万二千のグループ。

 

 

橘は、その唐を中国大陸で滅ぼし取って変った契丹系ゆえ、大陸人でもトウ(唐)でナイゆえ、豪くみられず被差別とされる。

 

 

彼らは天神信仰だが、源は元ゆえ「白山さま」信仰。

 

平は今のペルシアと同じで赤旗をふり「祇園、八坂信仰」で、宮島も紅殻の赤塗りである。

 

藤は墨染の衣をきた坊主が宣教師で先にきたので、「黒住教」さえ残っていて、藤は唐で黒色。

 

 

しかし四つの姓別は、最底四種以上の複合民族をさすが、勝てば官軍・負ければ賊で賎、黒の他は、次々と体制の変るたび限定居付部落へと追いこみ。

 

郭将軍に滅ぼされたものの、ナラ王朝と栄え桓武帝より良となったクダラ系は黄色である。

 

 

しかしエタ非人と一つにしたりまた分類し、エツタ島(江田島)など海軍にそっくり召し上げられると、「江田島」と恰好良くなるのは、

 

そうしたゲットーへ次々と敗戦捕虜が入れられ、混同している為だが、四大別ではなく、太古日本人は「エケセテネ」が姓の上に付く処の「雑色」の人々だろう。

 

 

「皮剥ぎ」も「皮細工」も四つと呼ばれる騎馬民族。

 

判りやすく言えば、白筋の馬方は源氏だが、

 

駕かき川越人足や雲助は、平家で八つとよぶ赤旗の拝火宗徒。

 

トウナイは唐無いで契丹系の部落民と、はっきり種族別が分けられる。

 

 

喜田貞吉は他国の捕虜とか社会の落伍者ときめつけるが、藤原王朝時代に征伐された日本列島原住民

 

 

 

足利時代は散所奉行が新設されて、南朝に味方した者らの反体制子孫を収容。これは「庶民日本史辞典」「野史辞典」「日本部落史料」で明白にされている。

 

 

戦国時代の始めの応仁の乱に、部落の者は山狩りで集められてきて足軽とよばれ楯の代りに、扱われ、生き残れたのが戦国武者や武将になれたが、世が泰平になると下克上は明治維新までのびた。

 

が、五代徳川綱吉が韓国済州島系で神仏混合令の法令を下し反仏派の原住民は宗門改めの寺杜奉行によって、浄土(上等)でない汚れた下等人だと差別され圧迫された。

 

 

太田亮の「姓氏辞典」では加賀に入った藤原氏と美化しているが、仏教は一向宗が入っただけ。

 

ナポレオンが勲章を発明するまで「賜姓」といって、藤原姓をエゾや反乱軍の純友にも与えた。

 

 

つまり実際、産所は足利慕府散所奉行で、反体制だった南朝方子孫を捕え収容したのが、同じ呼び方ゆえ産所と間違えられて伝わる。「山所」ともなり「山椒太夫」や「山椒魚」ともなる。

 

 

 

被差別の習憤が広まってしまった為でもあるが、喜田貞吉説も産所と文字通りにとって誤っている。

 

 

なにしろ唐語のブシン(不信)つまり信用できぬ輩とし召使われ、それが武力をもってついに公家を押さえつけ、公家対地下といったのが実力で逆転。

 

下克上の時代と呼ばれたのが文治革命であったり、戦国時代以降となる。

 

 

かつては非人とか八部とよばれた蜂須賀小六も阿波の大名となる。

 

 

傭兵が武力でクーデターを起し主権を奪ったのである。

 

 

関白の一条兼良は足利末期の藤原系で仏派ゆえ、寺を荒す彼らを悪党と呼んでいる。

 

 

さて、藤原王朝は天孫民族なりというが、どうもこれは妄説である。

 

 

藤原基経に廃帝にされた陽成さまの一族一門が山へ逃げこみ木地師となって、山がつになりたまいし事実もあるが、高貴の出で良であると証明したくて、白分らを放遂した藤の姓を勿体ぶって付けている。

 

それゆえ、その姓を本物と思われてしまい誤られている。

 

 

 

《日本には正しい歴史なんかない》

 

日本には正しい歴史なんかないのだからと、他国のごとき歴史学博士の称号は不可と明治一八年の博士号設定の時リースに言われたごとく、恰好よく美化されているだけで、何も判っていない。 

 

 

 

《部落とは》

 

 

部落とは騎馬民族が日本列島へ渡来時に古代海人族を収容し、藤原時代には「良」でない人口九割の「賎」の民をとじこめ、

反仏派の北条期には「源氏の四つ」を始め赤系でない者を追いこんだ。

 

 

 

足利幕府になると今度は逆で、赤系の「砥の八つ」も反体制の南朝方と、橋のない川へ入れられたのが実際の処で、喜田博士は日本部落史研究の第一人者とされているが、何も全然ご存じない。

 

 

まだアイマイモコ(曖昧模糊)の喜田史観の聞違いだらけよりも、明石書店刊高柳金芳の「江戸時代被差別分層の生活史」の方が正確である。

 

 

そこから逆にさかのぼってゆけば、九対一ぐらいの割合だった征服者と被征服者の悲劇。

 

つまり吾々の先祖の虐げられてきた真相が判りうるといえる。

 

 

 

「良いことを言われると、ひとは悪い気がしない」という人情のキビを巧く利用して、なんでも美化してしまい、敗戦民族を「国津神」などとしてしまうからして、それを文字通りで読まされては、喜田先生でも訳けが判らなくたる。

仕方がないというか、まあ当り前みたいになっている。

 

 

 

《拝火宗で「砥」とよばれる八》

 

 

さて拝火宗で「砥」とよばれる「八」は、西南渡来系の日本原住民だし、「四つ」は騎馬民族で東北沿海州から日本海を親潮で流されてきた北方民族であるが、

 

治安維持のため徳川時代には施政方針を「四つ」と「八つ」を交交互にくりこんで互いに牽制しあわせて被差別。

 

 

「藤ナイ」は一〇世紀流入の契丹系をさす。

 

 

契丹は唐を滅ぼし取って換った国ゆえ、大陸系でも御所からは賎民視されていたのである。

 

 

だが、太平洋側に黒潮で這い上った「八つ」は八母音の原住民で農耕漁業製塩をしたから食用課役奴隷にされた。

 

が、「四つ」は沿海州北鮮系で遊牧民族ゆえ、討伐されて捕えられる飼戸(しこ)。

 

 

 

《ショウモン》

 

石岡の部落にしても、「夷岡」とよばれ「ショウモン」と蔑まれ区別されていたというが契丹系で、天慶の乱とされた時の者らの押しこみ限定地。

 

 

だが工の戸つまり江戸の以北はみな部落ゆえ、一緒くたにされて被差別され、すこしでも反抗すれば徹底的にこらしめて、オカミの言いなりになる奴隷人民に仕立てしまった。

 

だから藤原王朝の鉄武器による権力はえらいものであった。

 

 

「その筋の御達しにより喫煙は」と今も映画館にでている。

 

消防とか警察といった危険を伴う仕事は「干金の子は撫賎に死せず」とか「良い人は兵にならぬ」といった唐の教え通り、藤原氏が日本へきても農耕をせぬ飼戸奴隷に施行。

 

 

なお足利時代に散所奉行が旧南朝方の子孫を部落の散所民にしたのが知られていないから、私の「特殊部落発生史」に順に詳しく書いておいた。

 

 

 

《千の宗易・相撲》

 

干の宗易こと俗にいう利休の自決後、その木像を八付にかけた後その一味のササラ衆を部落に追いこんだのが茶筅(賎)部落で、華やかな茶の湯とは裏はら。

 

 

また普はハングリースポーツ興行だった角力はオドマ勧進の、勧進元で取り締まっては八百長で儲けていた

 

儲けるといえば、一番新しい宗派では、既存のダンナなどないからして、一向宗は部落に目をつけた。

 

 

 

《真言宗・一向宗》

 

 

悪人でも念仏を唱えれば善人に生れ変る。

 

部落民でも、信心すれば次は常人に生れてくるのだと、真言宗の本願寺説教僧が信徒にして廻ったので寺人別の数は増えた。

 

 

だが、彼らの殆どはあくまで反仏であった。

 

 

僧へ絶対に近かよらなかった原住民の全体は、この百倍以上が、実際はいた。

 

今でも旧部落に金ピカの立派な仏壇があるのは、一向宗が利輸をとって売りつけていた名残りである。

《喜田貞吉博士》

 

 

日本では歴史屋は真実追及よりも、どうも歴史をくいものにし、儲けたがる傾向があるみたいである。

《部落問題・島崎藤村の破壊・住井すえの橋のない川》

 

 

部落問題は関西では捕虜奴隷として連行された末裔ゆえ被差別されて地域的だった。

 

 

全国的に「解放」の美名で広めたのは、神武陵の守戸の子孫の丑松が教壇で告白する鳥崎藤村の「破戒」それと、

 

この「民族と歴史」が、まったく何も知らぬ人々にまで、部落について初めて知らされる結果となり一般庶民が驚き仰天した。

 

その結果の名残が、住井すえの「橋のない川」である。

《日本では「人の下に人を」》

 

 

せっかく親や祖父母も絶対に口にしないことを自分らもその出身者なのを、本で知らされ、そこでまだ残っている部落に対し本当の事は何も知らず、子供などは苛める対象にまでしてのけた。

 

 

「天は人の上に人を作らず」といわれるが、日本では「人の下に人を」作ってきたのである。

《日本の弥生時代》

 

 

「天の古代史研究」の本さえ読めば、まったく事実はあべこべで、

 

渡来した鉄剣部族が、それまでの先住縄文日本人を征服して、奴隷にして被差別した歴史が、日本の弥生時代だとはよく判る。

 

 

https://blogs.yahoo.co.jp/hakusyunetto/32286655.html

 

 

 

 

日本が変わらないのは 「なりすまし支配」

  • 2018.05.26 Saturday
  • 23:52

 

 

何故、日本に民族派が登場しないのか?・・・

 

日本は三重に支配されている

 

 

 

プーチン、習近平、北朝鮮・・・民族派が世界を引っ張る構図。

 

 

東アジアは北朝鮮発の軍事緊張が緩和され融和に向かっている。

朝鮮半島と世界はどこに向かうか

しかし、日本はなかなか変わらない印象。

 

 

今日はボヤキだと思って読んで下さい。

 

日本に民族派はいるのか?安倍は民族派であると言う人もいるかも知れない。

 

しかし、明らかに不正選挙で政権を維持している。この点だけでも民族派とは言えない。

 

 

 

20世紀末から、日本の右傾化は進んでいる。そう考えると民族的心性が復活してきているのは明らか。

 

しかし、それを受けたプーチンのような指導層が登場しない。

 

田布施一味の血を引く人間ばかりが政治の表にいる。

 

 

 

●日本はガチガチ、3重支配されている。

 

よく考えると、日本はガチガチに支配・管理されているのではないかと思う。

 

戦後日本は、実質アメリカの植民地、そこに媚へつらう悪徳代官のような官僚。

 

アメリカに面従しながら、金儲けばかり考えている田布施・天皇一派。

 

 

―ー膵颯▲瓮螢と金貸し支配

 

 

 常に日本弱体化のベクトルを放つ。労働基準法・男女平等から始まって日本人の牙を抜いてきた。

 

太らせて食う。戦後経済大国化の後は、構造協議・郵政など金融収奪、派遣労働で奴隷化。

 

 

※トランプの登場で、ここがどう変わっていくか?ここは追求したい。

 

 

 

△修硫蕊機構に、属国官僚による権力支配。

 

官僚・マスコミはアメリカと金貸しの言いなり。近代観念が武器。個人・自由・平等・権利なんて言葉を使っていると、本能・集団発の民族意識なんで沸いて来ない。勉強脳・暗記脳で、金貸しの敷いたレールを疑いもせず突っ走る。

 

 

 

民族のフリをした天皇教による騙し支配

 

民族派になると、何故かここに誘導され本来の日本人を守る志から別の道に誘導されてしまう。

 

 

日本会議の登場も民族意識の潮流をベースにしているが、神社系列によって巧妙に誘導されている

 

 

神社が誘導する天皇教は、日本人のルーツを百済系朝鮮人の血統にすり替えて尊いといっており、日本書紀以来の完全な騙し。

 

 

日本には究極の“なりすまし”がいる、・・・天皇一派

 

 

表では日本人のような顔をして、裏では日本人を売って金儲け、その姿勢は一貫している。

 

天皇を表に立てる闇勢力とは?

 

 

 

・・・こんなんで、現状は日本人には民族派が登場してこない。とりわけは許せん。

 

 

しかし、縄文以来の日本人の豊な集団性・共同性は、制度支配・観念支配とは全く別の次元(身近な仲間関係や人間関係)で生起しつつあり、やがて三重の支配構造を根底から覆していくだろう。

 

(by Hiroshi)

 

 

http://blog.nihon-syakai.net/blog/2018/05/7651.html#more

 

 

 

信長殺し 光秀ではない   矢切史観

  • 2018.05.18 Friday
  • 23:49

 

 

織田信長は、京都・本能寺で配下の明智光秀の謀叛によって敗死した――。

 

これは、教科書にも記載される歴史的事実として多くの人々に記憶されている。

 

 

八切止夫氏は、1967年に『信長殺し、光秀ではない』(講談社)を上梓し、

 

「本能寺を襲撃したのは明智光秀でなく、信長はイエズス会宣教師が持ち込んだ爆薬で殺害された」という衝撃的な新説を提唱した。

 

 

 

八切氏は、すでに存在する文献を再分析しながら、独自の論旨を展開。

 

最終的には、イエズス会が本能寺の変に関与した決定的証拠が海外にあり、自身が見たとすることにより、自説の正統性をアピールした。

 

 

だが、文献の解釈が歴史学の常道を無視していたことから、歴史学者の圧倒的多数は否定的見解を公表することもなく、八切説を黙殺した。

 

 

八切氏の名は一部の熱烈な支持者を除き、忘れ去られつつある。

 

その一方、「信長襲撃犯は、ほかにいる」という新説の与えた衝撃は大きく、本能寺の変を主題とした小説や評論において、今に至るまで影響を与え続けている。

 

 

加藤廣氏の『信長の棺』(日本経済新聞社)は、時の首相が愛読したことで話題を集めた。

 

 

同書では、「信長は、光秀の襲撃を受けながら、南蛮寺への抜け穴の存在により、脱出できるはずだった。だが、羽柴秀吉の配下が抜け穴を封鎖したことから、窒息死する」という設定が用いられている。

 

 

立花京子氏は『信長と十字架―「天下布武」の真実を追う』(集英社)で、

 

 

「信長は南蛮勢力(スペイン・ポルトガル)の指示にもとづき、国内の統一を推進していた。

 

にもかかわらず、イエズス会の宣教師は、信長の存在を危険視し、光秀に対して信長襲撃を命令した」という衝撃的な説を提唱した。

 

 

ある意味では、八切説の進化系に分類はできるのだが、数多くの文献を駆使しながら論旨を展開しており、空想に等しい八切説とは一線を画した。

 

 

ただし、信頼性の高い公家が残した日記や、イエズス会関係の海外史料への解釈の方法が飛躍的だった。

 

 

そのため、歴史学者たちは黙殺するというより、腫れ物に触れないようにしたとも表現できる。

 

 

なお、立花氏は理工系学部の出身ながら、50代から歴史研究に目覚めたという異色の経歴もあってか、今までにない斬新な織田信長像を数年前に病没するまで構築し続けた。

 

 

明智憲三郎氏は、『本能寺の変 431年目の真実』(文芸社)において、光秀の子孫の立場から、独自の説を展開して注目を集めている。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ニュースサイトで読む: http://biz-journal.jp/2015/07/post_10593.html
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

藤本正行氏と鈴木眞哉氏は、『信長は謀略で殺されたのか―本能寺の変・謀略説を嗤う』(洋泉社)などの中で、

 

立花説や明智説をはじめ本能寺の変にまつわる新説に対し、否定的見解を提起した。

 

 

立花説については、信頼性の高い文献の分析を基盤としていたため批判しがたい状況の中、ほかの史料の提示や異なる視点から否定している。

 

 

藤本氏や鈴木氏は、大学や研究機関の束縛を受けないこともあり、自由な立場から腫れ物に対する処方箋を示すことができたともいえる。

 


では、どんな束縛があるかというと、それを誤解なく表現することは不可能に等しい。

 

 

小説家や評論家は、本能寺の変や織田信長に限らず、歴史の謎に対し文献にこだわることなく大胆な解釈を加え続けている。

 

 

一方の歴史学界においては、文献の解読と解析という地道な努力を継続している。

 

この2つの流れが交わることなく棲み分けされているのが、歴史界の現状なのだと思う。

 

 

歴史好きの立場からすると、そんな2つの流れがあることを知っていれば、今までとは違う視点から、歴史と接することができよう。


(文=外川淳/歴史アナリスト)

※参考文献:「歴史人」(ベストセラーズ/7月号)記事『本能寺の変 信長を殺ったのは誰だ!』

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ニュースサイトで読む: http://biz-journal.jp/2015/07/post_10593_2.html

 

 

http://biz-journal.jp/2015/07/post_10593.html

 

 

 

 

 

 

信長殺し、光秀ではない 八切意外史
クリエーター情報なし
作品社(インプレス)

 

 

 

 

薩摩と長州   高麗町と田布施

  • 2018.05.17 Thursday
  • 23:36

 

 

幕末動乱に暗躍する両班派閥の存在

 

 

薩摩藩の城下に、豊臣秀吉が行った朝鮮出兵で連れてこられた朝鮮人集落がある。

 

高麗町である。

 

 

1600年代に日置郡伊集院郷苗代川村(現在の日置市東市来町美山)へ移されるが、郷士との姻戚関係などで、この町の中で独自のネットワークを持つようになる。

 

 

ちなみに、明治以降、高麗町から出た政府の要人は下記のとおり

 

西郷隆盛、

大久保利通

東郷平八郎

大山巌

山本権兵衛

 

 

薩摩藩は4人に1人が郷士であり、李氏朝鮮で両班という差別社会では、常人と呼ばれる農民は、過酷な差別に耐え切れず、金を出して両班の地位を求めたといいます。

 

高麗町の朝鮮人にとって、郷士が両班であり、郷士になるために婚姻を繰り返したのではないでしょうか。

 

 

大内氏が滅びたあと、平家の落人が住んでいた田布施村に大内氏の家臣団が住み着いたのが田布施村であると考えられます。

 

 

朝鮮儒教の影響により、男系天皇制への思想的下地ができたと考えられます。

 

 

明治以降の政府の要人は、高麗町と田布施村出身者が多数出ています。

 

伊藤博文(首相)

河上肇(共産党・学者)

難波作之進(衆議院議員)

難波大助(虎ノ門事件)

松岡洋右(外務大臣)

賀屋興宣(大蔵大臣)

木戸幸一(内大臣)

安倍源基(内務大臣)

宮本顕治(共産党)

 

は長州と薩摩が中心となって徳川幕府を倒したましたが、高麗町と田布施村という狭い地域から、これだけ明治政府の要人は輩出されているのは奇異です。

 

 

 

この論の主題ででもある嘘と詭弁で塗り替えられた日本の歴史は、明治以降に書き換えられたものであり、

 

それは、高麗町と田布施村出身者らが書き換えたのではないかという疑問から始まっています。

 

 

 

http://www.link-21.com/history/src/008.html

 

 

 

日本人不在の日本の オリンピック 裏金

  • 2018.05.17 Thursday
  • 23:34

 

 

仏捜査で政府焦り 「東京五輪」裏金疑惑で開催できるのか

 

2016年5月15日 日刊ゲンダイ

 

 

http://asyura.x0.to/imgup/d3/3958.jpg

東京五輪招致出陣式で(左から猪瀬直樹前都知事、安倍晋三首相、森喜朗元首相)(C)日刊ゲンダイ

 

 

根本を揺るがす大問題なのに、なぜ日本のメディアは及び腰なのか。

 

 

2020年東京五輪の招致過程で、IOCの委員を務めたラミン・ディアク氏に日本の招致委員会側から裏金が支払われたと英紙「ガーディアン」が報じた一件だ。

 

 

2億円以上もの大金が、13年9月に五輪の東京開催が決まった前後、ディアク氏の息子が関係するシンガポールの口座に振り込まれていた。フランスの検察当局が捜査に乗りだしている。

 

 

ガーディアン紙の報道によると、日本の大手広告代理店がこの裏金事件に絡んでいるというのだが、不思議なことに、日本のメディアはこれを一切報じない。

 

 

辛うじて裏金疑惑を報じたメディアも、ガーディアンが掲載した裏金の相関図から、わざわざ代理店の名前を消していた。

 

 

FIFAもそうでしたが、スポーツビジネスの世界は利権まみれなのです。

 

 

 

■JOCは「正当なコンサル料」と釈明も

 

 政府与党は当初、菅官房長官が「政府として調査することはない」と言い切るなど、この問題にフタをするつもりだった。

 

しかし、フランス当局が本気で捜査するとなれば、さすがに知らん顔もできない。

 

「解散した招致委員会が進めていたことは分からない」などとフザケたことを言っていた日本オリンピック委員会(JOC)も13日、民進党の追及チームに呼ばれると、「正当なコンサル料」と釈明する方針に変えた。

 

 

「日本国内はそれで納得させられるかもしれませんが、フランス当局に裏金だと断定されたらどうするのか。

 

その裏金の出どころはどこなのか。もし税金が入っていたら大変なことで、五輪開催を返上しなければならないくらいの話です」(工藤健策氏)

 

 

思えば、招致活動で安倍首相が

 

「汚染水はアンダーコントロール」とウソ八百をついたことがケチのつき始めだった。

 

当時の猪瀬都知事は「政治とカネ」で辞任し、その後も競技場の設計や建設費、エンブレムで問題が頻発。

 

トドメが今回の裏金問題だ。「アンダーコントロール」が“袖の下”だとすれば、まったくシャレにならない。

 

 

https://blogs.yahoo.co.jp/ff6988m/64366545.html

 

 

 

☆ オリンピックには 高円 とか 竹田 とか

 

天皇が絡んでいるからでしょう。

 

 

実際 世界のなかで 偽王室 (つまり すべての王室)ほど 胡散臭いものはない。

 

 

 

金融マフィアの使い手 「サンカ」の現在

  • 2018.05.11 Friday
  • 23:50

 

 

2012/10/29  現代の技術者としてのサンカの1つの役割 鉱山技士 

 


https://youtu.be/AFu7i4Ga9Co

 

 

 

☆  中山恭子は 何者?

 

 

 

 

古墳を掘り起こせ

  • 2018.05.09 Wednesday
  • 00:04

 

 

天皇家・宮内庁による「古墳」私物化を許す限り、日本古代史の根幹にかかわる「真実」は見えてこない。

 

「世界文化遺産」申請など、もってのほかだよ。掘り返せ、古墳も、臣民の曇った眼も。

 

 

 

 

    

 

   https://pbs.twimg.com/media/DPhJZgQVAAA907F.jpg

 

https://twitter.com/mayumi3141/status/934578334616272896

 

 

 

ざっくりと 日本史   矢切止夫史観に基づく

  • 2018.05.06 Sunday
  • 00:07

 

☆  明治からの政権を擁護するためのものではないことは確かだと思いますが それでも あえて 諸説のなかの一つということと思います。

 

 

 

◎ 日本は単一民族ではなく、多民族国家です。

 

 

縄文時代は世界で最も古く、文明は、日本から始まり、世界中に文明を築き 又、日本に戻って来たと述べています。

 

はやし浩司

 (宝達町のモーゼの墓)youtube

 

転載を禁じているので自分で検索して

下さい。

 

 

 

◎ 八切止夫氏の日本史観

 

日本人の三大源流としまして、以下のように分類されると考えられます。

 

・縄文人:蝦夷、隼人、熊襲、橘氏・平氏

・弥生人:安曇族、原出雲族、物部氏(徐福)、藤原氏、漢民族(BC250〜250)

・古墳人:秦氏・清和源氏(扶余族、狛族、北方騎馬系八幡族)(3〜7世紀)

 

 

年代順に、このような順で渡来してきたと考えられます。(もちろん、現在は混血しています。) 橘氏と平氏のルーツは海人系だったのです。海人族は、東南アジア方面から船で出発し、紀伊半島に上陸したとも言われています。

 

 

   

 

 

 

いにしえより日本列島に住み着いていた縄文人。

 

     

 

 

 

 

その後に、大陸から海を渡りやって来た弥生人。

 

遺伝子鑑定だと沖縄とアイヌが縄文人です。日本人がお人好しで協調性があるのは縄文人の気質の影響だと思います。

 

 

日本人の遺伝子を調べると、同じものが地中海や中東の人々に多く、つまり失われたユダヤの10士族だと言われる、生粋のユダヤ人がもつYAP遺伝子をそうした多くの人々が持っているのだそうです。

 

しかし同じ東アジア地域ではあっても、中国人や朝鮮人は持っていないそうです。

 

 

 

     

 

      凹凸がないのが弥生人の特徴

 

 

 

 

弥生時代に入りますと、まず、徐福に代表される物部氏の一団が渡来してきます。

 

秦の始皇帝から派遣されたということで、渡来当初は秦氏と名乗っていたそうです。

 

 

平家・・ペルシャ(イラン)から航海術を駆使して渡来した平家

 

(ユダヤ10支族)は「八つ」と呼ばれ、

 

近年はヤの音で始る名前を持つ。平家は原始ユダヤ教のゾロアスター教徒で火を崇める

(民族色赤)好戦的で善悪をハッキリさせる。

貿易の拠点は神戸:

 

 

 

源氏・・唐を滅亡させた中国の元と同じ渡来系騎馬民族で馬、牛など4つ足を主に扱う技術に優れていた。

 

民族色は白。四つと呼ばれる。秦氏(ユダヤ10氏族)など

 

 

 

藤原・・唐人、当時日本を侵略して天皇システムを構築した。

 

戦後で言えばGHQマッカーサーに相当する。

 

郭ムソウ(藤原鎌足、百済出身)で好きなように天皇を選定・捏造した。

 

 

 

北条政子は祇とよばれる太平洋沿岸より黒潮で渡来した平一族で非情なサンカ。

 

新羅、高句麗から渡来した源氏と結託し

天皇らを隠岐や佐渡へ一生閉じ込め藤原一族を斬首し鎌倉幕府を樹立。

 

 

後に夫の頼朝や源氏の主だった者も殺し、

源氏を使い捨て。

 

 

日本の85%は四つと八つ、だそうです。

西日本に平家、東日本に源氏が多い。

 

 

白村江の戦いで負け統一されるまでは、日本には8つのグループ社会が点在し共存していたようです。

 

 

 

矢切止夫の日本史

 

 

白村江の戦い(663年)で敗れた日本原住民(すなわち平家系と源氏系)の国家は、進駐してきた支那軍(藤原政権)とそれにへつらって支配階級に帰順した百済系(南朝鮮系。のちに大和朝廷で貴族化する)によって支配されることになった。

 

 

 支那人(藤原氏)と百済系朝鮮人は、貴族階級を形成し荘園制度の下、のちに平家系の庶民となる住民を仏教に帰順させるとともに農耕漁業などの一次産業に従事させる。

 

 

それ以外の源氏系と平家系で帰順しない(仏教徒にならない抵抗勢力)は、囲い地(今日言うところの被差別部落)に押し込め、出てこられなくした。天皇はお飾りである。

 

 

 

 平安末期に平清盛が代表する平家一族(和歌山あたりに漂着したマレーシア方面からの民族)が一時藤原氏にとって替わって隆盛を誇るのだが、

 

これを旧来の(伊豆に分布していた)平家=北条家が、馬をつかった機動力に優れた源氏(源頼朝や義経)を利用して壇ノ浦で撃破し、再び南方へ追いやるのである。

 

 

 

 壇ノ浦で敗れた平家はいわゆる「平家の落人」にはならず、船でほとんどは南方へ逃げ帰ったのであった。

 

 

北条平家は首尾よく源氏をつかって天下を取ると、ただちに源氏一族(義経、頼朝の子、梶原氏などの武将)を滅ぼしてしまう。

 

 

 

 時は流れて鎌倉幕府(北条平家政権)の末期、元寇によって平家は権力が弱まるとともに、後醍醐帝という権力亡者の少しおかしな天皇によってガタガタにされ、鎌倉幕府は滅びてしまい、南北朝時代となる。

 

結局、このときは北朝が勝って、南朝は逼塞させられるのだが、この後醍醐に仕え南朝を支えたのが囲い地(被差別部落)にいた源氏系または山中に隠れていた原住民だった。楠木正成はこの一党である。

 

 

 北朝が勝って足利時代になると南朝方になった地方の者はみんな反体制とされて被差別の人間にされた。

 

 

 この連中=庶民のうち、美しい娘や働き者は妾や娼婦に取り立てられ、また男で丈夫で働くものは囲い地から出されて下人にされた。百姓や漁師にさせられたのである。この連中を称して支配階級は「阿呆」と蔑称したと八切止夫は説く。

 

 

 平家系庶民は「八」とも呼ばれ、また「天の民」あるいは「天(あま)」からとって「あ」の民とも呼ばれた。

その「あ」だから「あほう」なのである。旗印から「赤」でもあった。

 

 

 同じ阿呆と分類された庶民でも、源氏系は馬や牛、つまり運搬業に関わるため「馬鹿」と蔑称されることになっていく。

 

だから、馬や鹿は4つ足なので、源氏系を「四」と呼んだ。「四谷」などの地名は「四つの民」が居たところである。旗印から「白」である。

 

 

 こうして見てくると、アホは西日本で多くつかわれ、バカは東日本で多くつかわれる理由が、大雑把には西日本には平家系が多く、東日本は源氏系が多いから、という推測がなりたつのかと思われる。

 

 

 この差別、被差別体制が壊れるのは、織田信長や秀吉、家康といった戦乱の中から登場し、被差別人から成り上がった武将による。

 

美濃、尾張、三河といった地域が またかなり特殊な地域で、昔から平家系(南方系)の一大集落があったところであって、中央権力から大きな囲い地とされていた処なのである。

 

 

「他外(たわけ)」の地区である。ここから奇しくも信長、秀吉、家康が出て天下統一を実現させた。つまり「他外」による叛乱である。

 

 

 では徳川政権が熱心に部落解放をしたかというと、そうでもない。取って代わっただけである。

 

とくに5代将軍綱吉あたりから、徳川家は家康の正当な家系(赤、平家系)が消えてしまい、済州島から来た朝鮮人によって徳川家が乗っ取られてしまう。それが八切止夫の説である。

 

徳川将軍は途中から朝鮮人系統になったと矢切止夫は説く

 

 

 尾張徳川家は、徳川家のなかで最高の家格とされながら、ついに将軍を出せなかったのは、そのあたり(つまり朝鮮系でなかったため)に原因があるのではなかろうか。

 

徳川家でありながら、尾張だけが純粋な(?)日本人の系統だったから、いわば名義だけ残すために尾張が存続したのではないだろうか。

 

 家康の出身地から将軍が出なかったのは不思議である。偶然ではあり得まい。

 

 

 将軍が朝鮮人系統になったせいもあって、いっそう徳川体制と仏教寺院によって日本の人口の八割の被差別部落あるいは農奴が支配される時代になっていったのかもしれない。

 

 

 仏教寺院は庶民の、農奴や被差別の民に等しい庶民の把握のために今日で言う戸籍を管理していた。

 

そしてどの農奴の男と女を結ばせて子を得るかの指図を坊主がやった。

 

 庶民や農奴は当人の意志で自由に結婚なんかできなかった。

 

 

 ついでながら、長崎県対馬市の観音寺から韓国人によって盗まれた「観世音菩薩坐像」が、韓国で発見されながら韓国の裁判所が返還差し止めの仮処分を決めた問題はあっけにとられたけれども、

 

そもそもなんで寺に仏像が大事に置かれていたかといえば、信仰のためというよりも庶民を仏教で縛るためだったのである。

 

その意味では後生大事に文化遺産などとしておく必要はなかろう。

 

 

 さらに言えば、露骨に「当麻寺」なんて名が残っているが、

 

寺は庶民に大麻を吸わせて、「これが極楽だぞ」と信じさせていたのである。

 

その名残が「当麻寺」となったが、今はその秘密は隠蔽された。今日でいえば、日雇い労働者に覚醒剤を与えて支配しているようなものだった。

 

 

 それが江戸期を通じて徐々になし崩し的に壊れていき、明治維新で(フリーメソンの策謀はあったにせよ)庶民の解放が一気になされる。

 

 

 江戸期のなし崩し的解放とは、8代将軍吉宗時代から始まった、当時の大都会、江戸、名古屋、京都、大阪への人口集中現象であった。

 

 

吉宗は「五街道目付」に命じて、主要街道の庶民の出入りなどの監視を(経費節約を名目に)庶民自身に担当させることにしたのである。

 

庶民の中の、旅芸人や旅商人として許可した者(囲い地から特別に出ることを許された者)に、公認の朱鞘の刀(武士は黒鞘)と捕縛を持たせたのである。

 

 

 庶民に「お上御用」に担わせて、人件費をかけない監視体制を取ろうとした。

 

「分割して統治する」であったが、これはまったくのアイデア倒れであって、徳川政権からすれば大失敗、庶民からすれば天佑となった。

 

 

 庶民から監視役を抜擢したために、これはチャンスとこの(仲間の)朱鞘の者=監視人に渡りをつけて、被差別部落ないし農奴とされた仲間たちが次から次に囲い地や農地から脱出して、博多、京阪、名古屋、江戸へと大移動を始めてしまった。

 

銭で「町人別」を購入して、都会で商人や職人になっていった。

 だから大江戸は当時世界一の100万人都市になった。

 

 

 一方で警察の前身がこの「朱鞘」の木っ端役人だったから、もともと「囲い地」の出身であり、ゆえにヤクザと親戚だし、平気で税金を裏金に貯えることを集団でやらかすのだ。

 

 

 勝手に自由になった彼らが町人文化を花開かせる。

 

 

勝手に囲い地から脱出したのだから、いわゆる政治的に国なり体制なりが身分保障しているわけでもなく、戸籍で証明されているわけでもない、いわばみんな脱獄囚のようなものだったのである。

 

 

 

明治維新になって日本の人口を調査したら、予想の倍も実際は人がいて、明治政府は驚愕したのだ。

 

とても全国民を喰わせられないと踏んで政府は海外移民という棄民政策を実施する。

 

 

 海外に売り払ってしまえと提言したのは福沢諭吉なのだ。

諭吉も侍だったから、庶民がそもそも元は囲い地からの脱走者だったことを知っていたからだろう。囲い地の人間の命など鴻毛より軽かったのだ。

 

 海外棄民の一例が「からゆきさん」である。そうやって庶民を大量に海外に捨てたので、運搬した商船会社は大儲けし、その海運会社の大株主だった天皇家も巨大な蓄財をなした。

 

 

 

 庶民のほうもお互いさまだから、人権などなく、よって明治以降の軍隊では周知のように、内務班は陰惨なイジメの場となった。

 

 海軍では軍艦の下働きにされた庶民(水兵)には、便所もろくに設置されなかった。

 

 彼ら庶民にまがりなりのも仲間意識が芽生えたのは、軍隊とか学校教育とか対外戦争とか、新聞のおかげであったのだろう。

 

そうやってやっと多民族国家が「単一民族国家」に出来上がっていった。

 

 

 徳川政権は彼ら庶民のための警察機構は作ろうとはしなかった。

 

お上に反抗するものは取り締まったが、庶民同士の争い事には知らん顔である。

 

「大岡裁き」などありえようはずがなく絵空事である。庶民同士の争いに国家が介入するようになったのは、西郷隆盛が実質的首相のときに実現した。

 

 

 西郷が庶民を救って自由にしたのである。

 

 部落は、必ずしも南朝方、あるいは騎馬民族系=源氏系の者ではないが、一応彼ら「白山信仰」の者、源氏の「白」と世間では決め付けていたので、その者らを「しろうと」=「素人」と呼び、仏教系の体制側についた者を「黒うと」=「玄人」と称するようになった。

 

 

 玄人とは「黒」すなわち仏教徒坊主の衣(墨染めの衣)の意味である、しょせん、素人(白=源氏=反仏教)は、体制である仏教徒=玄人にかなわないということ意味だ、とされているのだが、これは本来的には間違いだと八切止夫は言う。

 

 

 

 玄人とは、「玄の人」つまり原人=日本土着原住民(最初から日本人)のこと、最初からの日本人のことだと彼はいう。

それが仏教を持ち込んだ支那系の仏教徒の意味に変えられたのは、明らかに作為だと八切止夫はいう。

 

 

 何が作為かというと、これによって、被差別部落(囲い地=除地)は帰化人のたまり場なのだという間違った知識を植え付けることになったからである。

 

 

今でももしかすると、同和の先祖は帰化人なのだと思われている人がいるかもしれないが、それは仏教坊主が意図的に悪意で広めたウソだと八切止夫は言うのである。

 

 

話は変わって近代史。

 

 

明治維新で天皇が摩り替わったのだが、藤原鎌足(唐、郭ムソウ)は神道よりも仏教を国教にし明治まで続きます。

 

 

明治まで続いた神仏習合を、廃仏毀釈で仏教を潰し国家神道を国教とし、明治天皇は正当な南朝天皇の末裔と言い出します。 

 

 

 

昭和4年2月に永年宮内大臣を勤めた田中光顕(たなか・みつあき)が次のように述べています。

 

 「実は明治天皇は孝明天皇の子ではない。

 

 孝明天皇はいよいよ大政奉還、明治維新というときに急に殺されて崩御になり、世間には、明治天皇は孝明天皇(北朝系)の皇子であり、

 

母は中山大納言の娘中山慶子様で、お生まれになって以来、中山大納言邸でお育ちになったということになっており、御名を睦仁親王といい、父である孝明天皇崩御と同時に直ちに大統を継いだことになっているが、」

 

実は、その睦仁親王は暗殺され、これにすり替わった明治天皇は、後醍醐天皇(南朝系)の第 11番目の皇子光良親王の子孫で長州萩で毛利氏が守護してきた。

 

 

これを鬼塚英昭氏はスルー、矢切止夫氏は肯定しています。

 

 

今サンカに関しての謎の詳しい説明は後日に譲るとして

 

「サンカは朝鮮人ではなく朝鮮部落が暖かく迎えてくれたといったほうが早いだろう。

 

熊本や山口の田布施に詳しい人から先日話を伺いましたがいずれも田布施はサンカの好む山岳地帯と共通している。

 

 

ですから田布施の朝鮮人部落出身といっても正確には田布施の朝鮮人部落で一緒に暮らすサンカといったほうが分かりやすいだろう。

 

例えば戦後の総理大臣岸信介もサンカの末裔であったと言えば話は早い。

 

 

 

ユダヤ10氏族はペルシャ(イラン)経由で船で和歌山方面から上陸が平家。

シルクロード経由で秦から徐福の物部氏。

シルクロードから北中国経由で契丹族の橘や源氏が新潟方面から上陸。

 

秦氏や源氏は新羅、百済に何年か滞在して来るので、ユダヤの末裔というのは間違いないと思います。

 

ユダヤと同じ風習が沢山日本にあります。

 

 

 

目立たない存在だった天皇を、国家神道をつくり、軍隊で部落差別や人種差別があるとまとまらないので、教育で単一民族国家であると教育し言い出した。

 

日本は多民族国家です

 

 

しかし、今の政権はユダ金の手先となり 日本を叩き売りしており日本への愛国心を少しも感じない。

 

国民無視でお金を貢ぎ、戦争へと進んでいる。

 

 

徳川政権から毛利政権という天下取りで満足しているのか。

 

裏社会は秦一族が支配しているといわれるが、金融マフィアの手先で満足しているのか。

 

原始ユダヤ、景教を守るなら、善政をめざし愛国心ある政治をして欲しい。

 

 

 

金融マフィアを追放しているロシアらのBRICSの仲間になるべきです。

 

 

傀儡となっている天皇制は廃止して、国民一人一人が参加出来る 民主共和制がいいのではなかろうか。

 

 

https://ameblo.jp/maeni76pop/entry-11790269706.html

 

 

 

☆ 面白いのは

 

大室説は 南朝だとなるし

 

箕作説は 南朝も北朝も関係がない ということでしょうか?

 

 

 

サンカと忍者

  • 2018.05.01 Tuesday
  • 23:59

 

 

☆ 忍者のことも気になっています。

 

なぜかというと サンカとか忍者とか 過去のことではなく 日本をあやつる特殊な集団が 今も続いていると思うからです。

 

それを 天皇種族として なんだか カラス とか いろいろあるような気がしており

ツィートテレビさんでも 裏・表のお茶の一族のことも でてきています。

 

かれらは 同じような 血 を保つ一族ではないのだろうか などと 空想しています。

 

千利休も 実際は キリスト教 (というより イエズス会と思います)であると ・・・

 

 

宝島出版で 忍者の本を出版していることを知りました。

 

この出版社は 島津洋一氏が オウムの主犯を (実行犯)を アベ一族として そのことを発信し、VXガスの日本での保管場所も暴露し、そてで その会社は 創価に乗っ取られた

 

という経緯があるので 本当のことを書いているのではないかと思ったのですが。

 

レビューを見ると サンカのことも書かれているようです。

 

日本の闇 今に続く闇 ・・・

 

 

まだ 空想と興味の段階ですが ・・・

 

 

 

◎ さて、今日も三宅先生のサンカ話に耳を傾けたいと思います。

 

 

学生の頃、礫川全次さんの『サンカと説教強盗』を読んで以来、この書は大好きなサンカ本のひとつなのですが、

ここに「サンカ=忍者説」が紹介されています。

 

 

当時わたくしは、

「忍者だって? よしてよマンガじゃあるまいし」なんて、小バカにしたことをここに告白したいと思います。

 

 

自分が忍者マンガ『カムイ伝』からサンカ道を歩み始めたのにも関わらず…。

いえ、そうであるからなおさらそう思ったのかもしれません。

 

 

ところが、最近「サンカ」と「忍者」には間違いなく繋がりがあると思うようになりました。

 

 

具体的な理由を挙げることは難しいのですが、

 

政治や体制維持のとある局面には、いつでも陰謀が渦巻いているということを肌で感じるようになったからです。

 

 

 

江戸時代、幕藩体制の維持のために暗躍した公儀隠密が間違いなく存在したことを、わたしたちは忘れてはいけません。

一方で、権力側に着かなかった忍びも存在したことでしょう。

 

 

明治に入り日本は近代化していきますが、

人間離れした忍者たちの裏技がときに炸裂する場面が「サンカの特殊犯罪」と言われるものだったのではないか、というのが礫川説です。

 

礫川さんの「サンカ論」って、後からジワジワくるんですよね。

「やっぱ礫川さんのいう通りじゃん」みたいな。

 

 

で、三宅先生なのですが、なんと

 

岐阜での教師時代、教え子のひとりが忍者の子孫だったというのです。

またまたまた、と言いたいところですよね。

わかります。

 

 

以下、利田敏『サンカの末裔を訪ねて』収録の

「三宅武夫講演テープ起こし」から引用します。

 

 

講演では主に、少年時代「サンカ文字」を教えてくれたサンカ藤原夫婦の話をしていますが、

途中、この忍者の子孫についてのエピソードが挿入されるのです。

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

サンカは木地と籠屋の両方をできるわけです。

 

そして武芸をやったわけですね。ま、隠密のような仕事です。

 

 

私の教え子にこの人の子孫がいて

彼の家に行ったことがあるんです。

 

オバサンが「何者じゃ!」と凄い顔をしましてね。

 

びっくりしましたよ。

 

名刺を出しましたら「こんなものが読めるか!」と言うわけです。字を知らないと叱られましてね。

 

で、名前を言いましたら

 

「うちの子どもの世話をいちいち焼いてくれるな!」と

 

「お前らの仲間に入れることもずいぶん心配したけれど、

これからはこういう商売をつがせても何もならんから、

 

先生にでもしようと思って学校へやっとる。

イランこと言うな」と言うわけでね、

 

「俺のこと調べに来たんじゃろ!」という。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

まるでコントですね。

 

登場からハイテンションでそのまま爆笑の渦を巻き起こすかのような冒頭です。

 

 

こんな無茶なお出迎えを喰らってしまった三宅先生。

ここはウソ偽りなく、ここに来た理由を包み隠すことなく言ってしまえと、そう思ったといいます。

 

それで

どうもあんたのところの子どもは目が違うので、校長がいっぺん調べとけと言ったので来ました」と正直に言ったんです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

すごくないですか、この返しも。

あからさまですし、

校長先生までが心配するほどの「目付き」とはいかに。

 

 

しかもすごいですよ。

 

三宅先生は、この教え子の家を見つけ出すまでに1週間かかったといいます。

 

生徒は、学校が終わると金華山へ行くのですが、三宅先生、どうも巻かれちゃうらしいのですね。

 

 

一週間かかって彼の後をつけて山越えをして、

引っ搔き傷いっぱい作ってようやくのことでオバサンのところに行ったんです。

畑も何もないんですよ。

 

 

やっとの思いでたどり着いたらいきなり

 

「何者じゃ!」ですから。

 

三宅先生の話、一刻も早く映画化かアニメ化した方がいいと思うんですが。

 

 

ちなみに「金華山」ですが、Wikipediaによると、

 

「金華山(きんかざん)は、岐阜県岐阜市にある標高329mの山。旧名稲葉山(いなばやま)。」

 

「岐阜市のシンボル的存在で、市民のランドマークや憩いの場となっており、夜景が美しいことからデートスポットとして県外から訪れる客も多い。」と紹介されています。

 

 

https://ameblo.jp/sankalab/entry-11912303151.html

 

 

 

 

 

 

 

 

日本史の闇を支配した「忍者」の正体 (別冊宝島 2032)
クリエーター情報なし
宝島社

PR

calendar

S M T W T F S
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031   
<< October 2018 >>

日本古代史

日本古代史入門
クリエーター情報なし
作品社(インプレス)

selected entries

categories

archives

recent comment

  • 部落の起源
    ひろし (09/19)
  • 米だけが悪という嘘 天皇制・大室寅之助 /田布施はNWO企業を推薦する ディズニー
    shion (08/27)
  • アベ3選の世論操作に騙されるな
    佐藤義徳 (08/11)
  • 戦艦大和の原爆実験   フクイチは核爆弾の製造工場
    アルト (08/08)

links

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM